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ミュージアム界隈 第5回「ミュージアムユニバース 〜すてき・ふしぎ・おもしろい〜」

せんだいメディアテーク副館長遠藤俊行が折々に綴るミュージアムとその界隈のレポート。今回は2019年12月に開催された「SMMAミュージアムトークテラス」「ミュージアムユニバース〜すてき・ふしぎ・おもしろい〜」を取り上げます。ボリュームたっぷりの3日間だったので、前後編に分けてお送りします。今回は後編・2019年12月14、15日に開催された「ミュージアムユニバース」の様子をお送りします。
*前編の「ミュージアムトークテラス」のレポートはこちら

トークテラス開催翌日の2019年12月14日と15日の2日間にわたり、「ミュージアムユニバース」が開催された。この催しは今回で8回目となる。内容もだいぶ盛りだくさんになった。私が見たものの中から印象に残っているいくつかをご紹介したい。

   

まずは1日目から「映像の仙台史《特別編》:戦後まもない秋保温泉への旅」。このフィルムは、旧秋保町から当時の仙台市視聴覚教材センターが預かり、保管していたものである。東北福祉大学・鉄道交流ステーションとせんだいメディアテークの学芸員2人が映像のなかから撮影時期の特定をおこなううえで手がかりになるものをピックアップする。

まだ、架線のかかっていない陸前白沢駅の様子が映っている(交流電化設備の工事完了以前に撮影されたものだ)。蒸気機関車の番号C5841や貨車の番号オハニ6176(これらの番号から製造された時期と仙山線を走っていた時期を特定できるのではないか)。ボンネットバスのメーカーと車種(これから製造時期を絞り込めるだろう)。秋保電鉄の秋保温泉駅での来客の出迎えの様子(法被を着た人がなんと自転車で駅に迎えに来ている!そしてホテルの前では女将と思しき人が笑顔で客を出迎えている。これは観光PR用に作った映像ではないか?大きなイベントといえば1952(昭和27)年10月に第7回国民体育大会が地元で開催されている)。八ツ森スキー場にリフトがない(リフトが設置されたのはいつ頃のことか)…等々。

これらの手掛りからじわじわと撮影時期の絞り込みを行っていく作業にはスリルすら感じる。その結果、この映像が撮影されたのは1952(昭和27)年8月から1954(昭和29)年8月の間というところまで絞り込みがなされた。映像の中には、見ている人の興味関心を惹き起こす素材がゴロゴロしているし、映像の撮影時期の特定というテーマで、学芸員の仕事がどんな風に行われていくのかが良くわかる、ミュージアムの世界への入り口に相応しいトークだった。

とても楽しかったのだけれど、その謎解きの成果をふまえたうえで、やはり映像そのものを通して見たかったという思いも残った。時間の制約があってそれは叶わなかったのだろうが…。

その後も少しずつ情報が寄せられている。

 

体験の広場で順番待ちの列ができるほどたくさんの人がチャレンジしていたのがスリーエム仙台市科学館による「ひかるクリスマスかざりをつくろう!」と地底の森ミュージアムによる「ミニミニ石包丁づくり」。

これはどういう原理でランプが点灯するのですかというあまりに初歩的な私の質問に対しても、科学館の先生は嫌な顔ひとつせず、小さなLED電球とボタン電池、アルミ箔を使ってごく単純な理屈と構造で作るランプなんですよとやさしく答えてくれた。先生の話を聞いていたら、現代のとても複雑に思える最先端の技術も、実は「単純」をたくさんつなげたものなのかも知れないと急に思えてくるから不思議だ。そして目の前で真剣にランプづくりに取組んでいる子どもたちの中から未来の科学技術をささえていく人材が生まれていくのだろう。

 

地底の森ミュージアムの体験コーナーでは、参加者たちが砥石で小さな石包丁になる素材をひたすらごしごしと磨き上げる作業に取り組んでいる。こどもも大人もみんな真剣なまなざしでひたすら砥石でごしごしごし。とても声をかけられるような雰囲気ではない。

できあがった石包丁でただ稲穂を切り取ろうとしても簡単に切れるものではない。でも、学芸員の方から教えられたコツさえ飲み込めば、本当に石包丁をあてただけであっさりと切れるほど切れ味は抜群だ。稲刈りというと一株まとめて刈り取るりというイメージがあるけれど、石包丁の時代はそうではなく、実った穂から一本一本刈り取っていたという学芸員の方のお話があった。そこから、「昔の稲と今の稲はどう違うのか・・・、昔はどのくらいの量の米を収穫できたのか…、米をどのように料理したのか…、米のご飯をどのくらい食べていたのか…、米のほかにはどんなものを食べていたのか…」などと頭には限りなくたくさんの知りたいことが浮かんでくる。楽しい体験というだけに終わらない、ミュージアムの世界へいざなう入り口がここにも確かにある。

それにしても今のこどもたちは、躊躇することなく積極的に体験活動に取り組む。昔のこどもは遠慮したりしり込みしたりすることが多くて、こんな感じではなかったような気がする。そのあたり昔の学芸員はかえって苦労したのかもしれないなどと思った。

 

会場で忙しく動き回る学芸員やボランティアの人たちは誰もがとてもまじめな人柄で、野球のピッチャーに例えれば基本的に投げてくるのはストレート系のボールだ。これに対して全体の進行役が、ときどき変化球を引き出そうとくすぐる。そのバランスが今年もとても絶妙。でも少し遠慮気味かなぁ…このおふたりもとてもまじめな人たちだから。

 

 

さて、2日目の日曜日は、仙台文学館副館長さんによるトーク「漱石さんの魅力」でスタート。漱石は知らない人がいないぐらい日本ではよく知られた人物だろう。でもその人となりは実はあまり知られていないのではないだろうか。漱石の作品のいくつかは読んでいても漱石のことは良く知らない私はかってにそう思っている。

漱石は1867(慶応3)年1月に江戸牛込で生まれた。この年の10月には大政奉還がなされ、その翌月、京都の近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されるなど、まさに激動の年に生まれてきた人なのだ。そんなイメージはなかったというのが正直なところだ。私の中では漱石には常に「近代」のイメージがつきまとっている。

1894(明治27)年、27歳の時に松島を旅行し、瑞巌寺に詣でている。当初は座禅を組もうと思っていたがやめたらしい。友人の正岡子規に宛てた手紙にそのことが書いてあるということだ。自分が書いた手紙が後世になって赤の他人に見られるということを書いた本人がどう思うかは知らないが、研究資料としては実に貴重なものになる。

漱石はいろいろなものを大切に捨てないでとっておいたようで、22~23歳の頃の身体検査の記録も残っている。それによると身長は159㎝で体重は49㎏。想像していたよりもずっと小柄だった。それでも当時の日本人男子の平均値とはほぼ同じということのようだ。そんなことがわかっただけでも自分の中の漱石のイメージはずいぶんと変わる。

漱石が小柄だったとことを知って驚いたとき、すぐに頭に浮かんだのは2年ほど前に松江の小泉八雲記念館で見たラフカディオ・ハーンの生成りの小さなスーツのことだった。ハーンも身長が160㎝くらいだったというからほぼ漱石と同じ。アイルランド人の父とギリシャ人の母を両親にもつハーンはヨーロッパ人としてはやはり小柄だったのかもしれない。

そう。漱石とハーン。熊本の第五高等学校で教師として2年間ほど同時期に在籍していたことがある。また、漱石は英国留学後に東京帝国大学の英文科講師となるが、その前任者であったのがハーンだ。ハーンの講義はとても学生たちに評判が良かったらしく、ハーンを追い出して後任に収まった形になった漱石は、当初は学生たちからあまり快く思われていなかったらしい。ただ、漱石がシェイクスピアについての講義をするようになると大人気になったとか。

自分の個人的な旅での見聞が思いがけなく、急に今日の漱石の話につながり不思議な気持ちになったが、そんなことを考えていたら、副館長さんの話を聞き逃しそうになってしまったのであわてて頭を切り替えた。

漱石の日記や手帳、原稿、手紙などの自筆資料や、たくさんの書き込みがされた旧蔵書など約3000点が、いま東北大学附属図書館に一括した形で「漱石文庫」として残っている。これは1944(昭和19)年2月に漱石の遺族から寄贈されたものである。当時、かつて漱石の門下生であった小宮豊隆が東北帝国大附属図書館長を務めていたこと、そしてこのような資料をばらばらに分類して一般の図書と同様に配架するのではなく、特殊文庫として一括して受け入れる基本方針が図書館としてあったことが遺族の思いと一致し、実現したものだという。ほんとうに貴重な財産が東北大学附属図書館にはある。

漱石を語るには伝えたいことが山ほどあって短い時間でまとめるのはとても大変だろうなと思っていた。そんな勝手な杞憂をよそに、副館長さんは漱石と仙台とのかかわりという視点から、みじかい時間でもまとまりのある、そして参加者の興味関心をさらに漱石の世界にいざなってくれるようなお話を伺うことができた。

今回のミュージアムユニバースでは、いまや恒例となった学芸員の一押しミュージアムコンテスト「ミュゼバトル6〜わたしのイチ押しミュージアムはコレよ!〜」や新企画の「学芸員質問箱」、「ひと坪ワークショップ」を含め、トークとイベントの広場そして体験の広場、展示の広場での様々な催しや展示が行われ、来場した方々にはいろいろ楽しんでいただけたと思う。その楽しい記憶が、学芸員の仕事の世界やひとつひとつのミュージアムがもっている奥深く広がりのある世界へと向かう小さなきっかけとなってくれたらとてもうれしい。また、その一方で、ミュージアムが市民にとってもっと身近な存在となるために、ミュージアムに眠っているたくさんの「物語」を学芸員の方々がひとつずつ掘り起こしながら伝える「語り部」となる。そのような場や機会を、もっともっと作っていく必要がある…そう実感した3日間でもあった。

 
 

せんだいメディアテーク副館長・遠藤俊行

 

ミュージアムユニバース2019にて行われたトークコーナー「学芸員質問箱」−回答編−はこちらをご覧ください!

 

↓↓これまでに掲載したコラム「ミュージアム界隈」はこちら↓↓

ミュージアム界隈 第1回「それぞれの「交流」の物語」
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