各館の出来事

福島県立美術館

1984(昭和59)年 7月 開館

福島県福島市森合字西養山1

ヒアリング調査:2013/03/26

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面 積 敷地面積:60,500㎡
建築面積:6,471.7㎡
延床面積:9,680.7㎡
構 造 鉄筋コンクリート造
年間来館者数 平成21年度 61,100人
平成22年度 140,366人
平成23年度 75,409人
平成24年度 80,631人

震災の被害について

建物の被害

  • 正面入り口の玄関(屋根が出っ張っている部分)の裏側の天井の化粧板が2枚ほど落下
    落下の際にちょうどその真下、玄関のガラスの部分に当たりガラスが割れた
  • 空調機器配管の一部脱落
  • 常設展示室内照明レールの損傷
  • 企画展示室内仮設展示壁の歪み
  • 敷石等の破損、舗道の段差
  • 庭園内プールの排水漏れ

人的な被害

なし

資料等の被害

  • 展示中の作品 彫刻とやきもの作品の一部および絵の額の破損
  • 収蔵庫内の作品 絵画と版画作品の一部および絵の額の破損

施設管理に関するヒアリング調査まとめ

震災発生当日の様子

来館者:約100名(当時はスタジオジブリレイアウト展を開催中)
スタッフ、職員、展覧会のブックショップの販売員:約40名
計140名

震災発生当日の施設閉鎖までの経緯

  • 監視員と呼ばれるスタッフがお客さんをホールから外へ誘導
  • 夕方5時頃までかなり大きな余震がしばらく続き、美術館の前の芝生の付近に職員は避難

その後、監視員など帰宅可能な者は帰宅。職員は残り、地震の様子を見ておさまったところで施設内の被害確認。暗くなりかけていたため展示室内に関して、その日は懐中電灯で室内に人が残っていないかなどを簡単に確認。それから収蔵庫の扉を開け、いくつかの作品落下を確認。
当日、3人が宿直(宿直の必要からではなく、帰る手段がなかったことから)。

震災直後の様子 3月12日~3月末日までの期間

インフラ関係:福島市内はガスが無事であった。

3月15日:通電に伴い電話、インターネットの復旧
しかし、美術館は電気量がかなり大きく、一度停電した場合には、点検が必要。ところが点検をしてくれる業者がガソリン不足と、あちこちから同じような要望があってとても手が回らないということでこちらに来られなかった。
3月18日:水道復旧
3月21日:電気復旧
4月 7日:空調再稼働

  • 被害状況は翌日に職員で確認(建物関係、作品関係、展示室内の状況)
    建物に関しては幸い大きな被害はない。正面入り口の玄関(屋根が出っ張っている部分)の裏側の天井化粧板が2枚ほど落下。落下の際にちょうどその真下、玄関のガラスの部分に当たりガラスが割れた。

  • 専門家の被害確認
    施工を行った鹿島建設が確認(3月26日)。建物には大きな被害は無いということで、できるだけ早く玄関の部分の応急処置をしてから、本格的に工事。美術館の部材はすべて特注で作っているもので、注文していると間に合わないことから、化粧板部分は、材質や見た目が近い有り合わせのもので覆い、できるだけ早く再開するということになった。

施設再開まで

美術館の職員は、県の職員なので、県の方から避難所でのお世話をするということで割り振られ、市内の避難所に2人1組で行くということを始めたが、すぐに終了。理由としては、避難所そのものが福島県の場合震災の後に原発の事故の問題が出てきて、避難していた人たちが日ごとに移り住んでしまったことが大きい。つまり、当初は福島市の方に人が避難していたが、さらにもっと奥の会津の方などに移り住むということが起き、避難所そのものが人も場所も流動的だったと言える。実際にお世話をしたのは2組ほど、合わせて4人ほどであった。
 再開については玄関部分の復旧工事が必要であった。鹿島建設のほうでどのくらいの時間で対応できるかと、年度末だったこともあり、復旧工事と言ってもお金が発生するため、その経費をどうやって捻出するかという県との折衝に時間がかかっった。それでも3月中に工事の目途が立った。その後、空調がきちんと再開することと、もう一度点検(見た目は壊れていないけれど、見えないところで中は壊れていたというのがないという確認)を行って再開。
 4月10日すぎくらいには、大体連休前には再開できるだろうという目途。実際に何日ごろがいいかという相談をして、再開の10日前ぐらいに決定。

施設再開後

利用状況で変化した点

来館者の数に変化→ジブリ展、その次の全国高等学校総合文化祭こそ来館者は多かったが、その後は減っている(20~30%程度)。福島県立美術館だけに限ったことではなく、福島県の似た施設ではどこでも起こっている。特に県外からの来館者が減っている。

事業・企画に関するヒアリング調査まとめ

震災当日から施設再開まで

再開当日、使用者や来館者の様子から特に感じたこと

  • 来館者が一様に非常に明るかったのが印象的だった
    再開後すぐに連休に入り、スタジオジブリ展であることも影響していると思うが、1日で1500人くらいの来館者があり、これはこれまでにない人数である(震災前は日曜日でも400~500人くらい)。また家族連れ、親子三代で来る方が多かった
  • 会場内を細い迷路のように設定していたため、入場制限をかけるほどであった (入場するまで最大1時間半待ち)。通常の展覧会では入場制限がかかるといらだつものだが、来館者は皆ニコニコしており、それがすごく印象的であった
  • 来館者からは「すごく安心した感じ」や「この美術館にいてこれからジブリ展を見られるという喜び」というようなものを非常に強く感じた
  • 来館者に自由に書いてもらうアンケートを配付回収したが、とにかく美術館が再開してジブリ展を見られて本当に良かったという声ばかりであった
  • 館のスタッフには「この時期に再開しても、果たしてお客さんが見に来られるような環境なのか」などの不安も若干あったが、アンケートのコメントなどを見ると再開を批判しているようなことは全くなかった
  • 館再開直後には一応鉄道や道路は復旧していたが、まだ道路には陥没などがあった。また当時の福島の原発の事故の状況から考えると、いわき市方面からは来場できなかったと思われる
  • 仙台、山形などからの来館者はあったが、それ以上遠くからはいつもより少なかったと思われる

企画立案・運営方法で、震災前と比較して変更した点

  • 4月から常設展の内容を大幅に変え、「ふるさと再生、祈り」というテーマでリニューアルした。通常は所蔵資料を基に展示内容を組み立てるので、常設展を統一テーマで企画することは無いのだが、震災以後に美術館としてできること、やらなきゃいけないことを担当が熟考し決めた
  • やきものの展示を控えた。展示に最適なのは免震台なのだが数が足りなかったので。地震の際、常設の焼き物などはケースに入れて展示しており、通常はテグス(透明な糸)で固定していた。結果的に言うとテグスでは保護しきれなかった。ケースのガラス壁面と作品がぶつかって、双方に破損が発生した。テグスで固定するという手法には限界があると思われる
  • 絵画の展示において、「返し」がついた懸垂金具を使用していたことで、揺れにある程度対応できた

施設再開後

  • 新しい事業計画を作るのが一番苦労した。福島県の方針で災害復旧に直接関係のない事業は予算をカットされた。当館ではジブリ展は既に始まっていたので続けられたが、それ以降の予算が無い状態から再開することになった
  • 6月に開催予定であった「帰ってきた江戸絵画 ニューオーリンズ ギッター・コレクション展」については、逆に中止するとキャンセル料が発生する可能性があるので開催できた
  • 企画展のオファーが寄せられ始めたのが2011年の夏以降。当館の企画展を実施できるようになったのは次の2012年から
  • 支援のためのお話や持込みの企画は沢山あり、その中から実際にいくつか実施した。福島県立美術館にとっては企画展というものではなく、震災後の新たな震災復興への応援のメッセージを世界中から受けていることをアピールする、別の新たな事業になった
  • 事業費全面カットという事態は震災のあった年度だけの話で、翌年度に関してはそうではなかった。当館では前年度と同様の予算要求を行い、結果的にはそれがほとんど削られなかった
  • 震災年度に実施する予定だった企画を延期して翌年度に実施するなど、前述の持込み企画などもある。また震災地支援という趣旨での巡回展(ルーヴル美術館展、プライスコレクション_宮城・福島・岩手の3県を巡回)のオファーもある
  • それ以外にも被災地で仮設住宅に住んでいる子供たちへのワークショップやコンサートなど様々なオファーがある。それらの中からこちらで時期や内容を検討して実施している

再開までの復旧過程で、参考とした資料及び事例等

  • 再開に際してということでは特になし
  • 阪神淡路大震災の被害を教訓とした作品の展示および収蔵方法を取り入れていた
  • 文化財レスキューもまた、阪神淡路大震災の経験によって行われている

文化財レスキューについて

  • 震災発生年度は、当館としては全く参加できていない。震災被害が大きかった海沿いは東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故により放射線量が高く立ち入り禁止区域となっていたため
  • 2012年5月頃はむしろ福島から宮城に出かけ、石巻文化センターで被災した作品を宮城県美術館に運んでの洗浄作業に参加したりしていた
  • 震災発生直後には福島県内ではレスキューをやれる状況ではなかった。レスキューが始まったのは2012年の夏ぐらいから。全町民が避難している海沿いの町の資料館に様々な資料がそのまま残っているが、一年間空調無く放置されているためカビの問題がある。特に歴史的な文書などを中心に福島県の別な場所に輸送するというレスキューが去年の夏から始まった
     →双葉町、大熊町、富岡町の歴史民俗資料館にて実施。去年の12月まで数回に分けて運んだが、実際に運べた量は全体の3分の1か4分の1
  • 福島県の文化財レスキューはこれからである。しかし国の文化財等救援委員会は解散してしまうし、県も国が終わるのであればという姿勢を見せており、4月以降どうしたらいいのかということを現在検討中である

美術品と福島について

  • 6月に開催予定だった「帰ってきた江戸絵画 ニューオーリンズ ギッター・コレクション展」は、地震当時は静岡で開催中であった。福島県が被災したことで、コレクション所有者のギッター氏が以下の点について心配した
    1.貸し出し作品の安全
    2.福島で開催したとして、見に来る人がいるのか
    当時福島は、アメリカから見るととても危険な地域だった。そこで当館では時期を秋にずらして開催できないかと要望。
  • ギッター氏に放射線計測データ(館内外70か所程度)を定期的に計測し提出した →9月に開催許可が出る
  • 再び大きな地震などが起きた際の計画についての計画書の提出
    →山形の美術館に輸送する計画。状況を考えると多くの問題が発生する。実際に輸送自体が可能なのか。経費はどうなるのか。保険の問題は。県は対応できるのか
  • 2012年に「ベン・シャーン クロスメディア・アーティスト―写真、絵画、グラフィック・アート」展を、福島県立美術館を中心に、神奈川の県立美術館と名古屋の市立美術館と岡山の県立美術館の4館で開催予定であったが、アメリカから借用した作品が福島には展示されなかった
  • しかし、海外から作品が借りられない等の状況は2011年度よりは緩和されつつある

福島県における福島県立美術館の役割

  • 震災後、福島県におけるミュージアム活動を復興させるべく、福島県美術館連絡会議を立ち上げた(福島県立美術館の呼びかけ)
    【参加館は、福島県立美術館、郡山市立美術館、いわき市立美術館、喜多方市美術館、諸橋近代美術館、現代グラフィックアートセンター(CCGA)の六館】
    →放射線と美術品に関するレクチャーを開催