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SMMA見験楽学ツアー⑪ 鉱山の町・細倉の記憶をたどる—寺崎英子が残した写真から— レポート

学芸員をはじめとする地域の専門家を案内人として、仙台市内外の知られざる魅力を探るツアー企画「SMMA見験楽学ツアー」。2018824日(金)にツアー第11弾「鉱山の町・細倉の記憶をたどる―寺崎英子が残した写真から―」が、せんだいメディアテークと寺崎英子写真集刊行委員会の共催により開催されました。

「細倉を記録した寺崎英子の写真アーカイブ」は、メディアを活用して地域の歴史や文化をデジタルアーカイブするメディアテークの事業「メディアスタディーズ」のプロジェクトのひとつとして、旧満州に生まれ細倉に移り住んだ寺崎英子(1941〜2016年)さんの残した約13,000枚の写真を整理保存し、アーカイブする活動をしています。本ツアーの見学先の一つでもある「細倉を記録した寺崎英子のまなざし展」は、2017年にメディアテークで開催しており、細倉での展示は、同展示を現地に還元したい! という寺崎英子写真集刊行委員会の強い意志のもと実現しました。今回のツアーは、細倉での展示にあわせて企画されることになったのです。

ツアーのルートは、まず栗原市の細倉鉱山跡地に建つ「細倉マインパーク」で、展覧会と坑道を見学しました。次に、細倉地域の過去と現在の様子を見比べながらまちを散策しました。そして最後にせんだいメディアテークで「細倉を記録した寺崎英子の写真アーカイブ」の活動見学です。

台風が次々と発生し不安定な天気が続く、あいにくの雨模様の中、仙台駅でバスに乗り込みツアーはスタートしました。今回の目的地である栗原市鶯沢の細倉地区は、宮城県の北西部、岩手県や秋田県にも近い奥羽山脈の山麓に位置し、仙台からは約80分かかります。バスの中では案内人である小岩勉さん(寺崎英子写真集刊行委員会)と私、田中千秋(せんだいメディアテーク)が、冒頭で記したような企画の経緯や趣旨を紹介しました。細倉に行ったことがある人がいるか尋ねてみると、行ったことがある人が半分くらい、そのうち数名は昔お住まいだったということで、当時の話が聞けることを期待しつつバスに揺られていきました。


▲案内人の小岩勉さん

車窓からの風景が山道からひらけた道に入った頃、「細倉マインパーク」に到着しました。

 
まず初めに、資料展示室で開催されている展覧会「細倉を記録した寺崎英子のまなざし展」の見学です。この展示は、寺崎さんが鉱山の閉山が決まった後に撮影した、約13,000枚のネガのうち、モノクロ写真約7,000枚のうちから300枚を選び出し展示したものです。写真の選定は膨大な量の写真を1枚1枚 見ながら「工場と鉱山」「砂山」「こどもたち」「消えていく長屋」などのキーワードに分類して行われたそうです。こうして見えてきた寺崎さんのまなざしからは、閉山が決まったとは言え、まだ賑やかだった細倉の様子が伝わってきます。小岩さんによると、細倉鉱山の工場や自然を映した写真も多くありますが、当時の細倉で生活していた人々の様子を捉えた写真が印象的だと言うことです。人々の何気ない様子をとらえた距離感から、寺崎さんは町で親しまれていた人であったことが想像できました。

 

 

寺崎さんと小岩さんの出会いは、寺崎さんの存在を知った1987年に、小岩さんが会いに行ったことがはじまりだそうです。直接会ったのは数えるほどだったそうですが、初めて会った日に、住人の引っ越しの様子を2人で歩きながら撮影したそうです。その後2016年に、失われていく土地の記録に関する展覧会に関わっていた小岩さんは、改めて寺崎さんを訪ねたそうです。そして、その際に「寺崎英子という名前の入った写真集を出版して欲しい」とネガをすべて託されたのだそうです。

小岩さんは寺崎さんの写真を見ていく中で、どこか自分事のようになつかしく思えてくるようになったと言います。モノクロの写真を眺めていると、自分は実際にこの場所にはいないはずなのに、昔はこうだったと思えてくるのが不思議です。記憶を想起させる力が寺崎さんの写真にはあるのだと思います。参加者のみなさんも、気になる写真があったのか、熱心に写真をのぞき込んでいました。細倉に住んでいた参加者のみなさんに話をきくと、自分の家は細倉小学校のすぐ近くにあって、とお話しをして下さる人もいました。

ここからは栗駒山麓ジオパークのジオガイドであり、ご自身も高校生まで鶯沢にお住まいだった髙橋哲男さんにも案内をしていただきました。

▲栗駒山麓ジオガイドの髙橋哲男さん

髙橋さんによると、かつて鉱山の町として栄えていた頃は、周辺地域から細倉に行くのは都会に行くようなものでなんでもそろったと言います。日用品のお店があり、飲食店があり、劇場があり・・・。当時の繁栄ぶりを物語る話としては、幼稚園には子どもが多すぎて1日おきに通園していたという話や、映画が仙台では100円もした時に、細倉では10円で観ることができた、などのエピソードがありました。鉱山の工場が経営する銭湯は無料だったそうで、髙橋さんも遊んだ後に入って帰ったと言います。

人里離れた山の中に存在する、まるで黄金郷のような当時の細倉のお話に圧倒されてしまいました。

 
▲鉱山展示資料室では、昔の鉱山での作業の様子も紹介している。

 
▲鉱山で実際に使用されていた道具類

資料展示室の見学を終えるとお昼の時間になりました。お弁当は、細倉マインパークの近くにお店をかまえ、映画「東京タワー〜オカンとボクと、時々、オトン〜」のロケ地にも使われた「食事処 だるま屋」のお弁当です。このお弁当はジオガイドの際など特別な機会でしか食べることができないメニューだそうで、色鮮やかな特製弁当に一同歓声ををあげていました。

腹ごしらえも済んだところで、いよいよ坑道の見学です。

入口では、寺崎さんが撮影した坑道最後の日の写真の紹介を紹介していただきました。最後の日は、きっと寂寥の感もあったのだろうと思いますが、写真にうつる皆の顔が笑顔なのがとても印象的です。


▲坑道最後の日(撮影:寺崎英子)

坑道に足を踏み入れると、どこまでも続くような道が続き、地下の世界に入ったようです。坑道の中は、年中気温が15度程度に保たれており、27度あった外気温と比べると、上着がないと寒いと感じるほどです。また、雨が続いた影響もあってか、岩間から水がしみ出ていました。

 

少し進むと、作業員たちが並んでいます。本当の人かと、一瞬ドキッとしますが、彼らはマネキンです。ここは、鉱山の事務所を再現したもので、出勤時にはここで点呼するとともに、一日の掘削予定についても話し合われたそうです。ちなみに、マネキンたちは実際に働いていた坑夫たちをモデルにしているそうです。リアルなのもうなずけますね。
 

更に進むと、鉱石の発破シーンや採掘した鉱石をどのように運ぶかについて、掘削機や坑車などと共に紹介してあります。鉱脈にそって採掘された場所の跡地は、大きな空洞となっていて、険しい場所での作業であったことを伺わせます。


▲発破シーンの再現


▲採掘の跡地

公開されている坑道は777mですが、その総延長はなんと600km、深さは地下420mに達したとのことです! 私たちが歩いたのは、入口付近のほんの一部でした。実際には坑道の中を走る坑車や坑内エレベーターで移動をしていたそうです。


▲奥に見えるのがエレベーター


▲坑道のジオラマ

坑道内には、坑夫の休憩スペースや汚れた身体を洗うためのシャワー室もあったそうです。広々とした休憩スペースでは雑魚寝もできそうですね。

▲休憩スペース


▲シャワー室跡

 

坑内での採掘作業は、落盤や火薬の爆発、身体に悪影響を及ぼす粉塵など、命の危険にさらされる過酷な作業現場でした。こうした過酷な労働の上に、日本の近代化が進んだことを改めて認識させられる機会となりました。坑道の出口の光が見えたときは、きっと坑夫たちは、「帰ってきた」という気持ちになったのではないかと、出口の光を見ながら思いをはせました。

 

ここで「細倉マインパーク」には別れを告げて、まちあるきに出発です。

最初のポイントは、青々とした傾斜面。しかし、これはただの傾斜面ではなくて「ボタ山」と言われるものです。「ボタ山」とは、鉱物の採掘にともない発生してしまう、不要な石をまとめて置いておく場所です。石は長年の蓄積によって山のようになるのです。細倉にある「ボタ山」は緑が茂っていますが、鉱山が動いていた当時は、草木の生えない石の山だったようです。閉山後の植樹活動などもあり、今は写真のように緑が生えています。

 

次のポイントは、寺崎さんの家があった地点です。道路の拡張により、今は同じ場所にその家はありませんが、寺崎さんが家の2階から撮影した写真と比べながら歩きました。写真の中の一部の建物は今も残っており、参加者も「この建物はあれじゃない?」と辺りを見回しながらの散策となりました。


▲子どもたちの通学路であった道(撮影:寺崎英子)


▲右奥の建物が今も残る

最後のポイントは、細倉の工場前です。現在は、細倉金属鉱業株式会社として、自動車バッテリーのリサイクル事業を展開しています。その工場の姿は昔の姿を多く留めています。残念ながら、大型トラックの出入りなどで危険があるということで、工場を一望することは叶いませんでしたが、閉山前には使われていた工場の特徴的な煙突を見ることができました。


▲昔は2本の煙突があったが、現在は1本だけになっている

ここで、まちあるきは終了し、バスに乗り込み帰路に着きました。目指すは最終目的地である「せんだいメディアテーク」です。坑道、まちあるき、と歩いたのですが、参加者の皆さんはまだまだ元気そうで、バスの中は賑やかな声に包まれていました。

 

仙台に入り、ケヤキ並木が美しい定禅寺通に入ると「せんだいメディアテーク」に到着です。「せんだいメディアテーク」は2001年に開館した生涯学習施設であり、図書感・ギャラリー・シアター、そして市民の方々の文化活動の拠点としてのスタジオがあります。寺崎英子写真集刊行委員会が行っている「細倉を記録した寺崎英子の写真アーカイブ」の作業も7 階の場所や機材などを利用して行われています。

この日は「細倉を記録した寺崎英子の写真アーカイブ」の他のメンバーに協力してもらい、普段の作業の様子を見せてもらうことにしました。24枚もしくは36枚撮りのネガフィルムの表面のほこりをコンプレッサーで払い、1本ずつスキャナーでスキャンしていきます。スキャンには数分かかるため、一度に大量にスキャンできるわけではありません。待っている間に、きちんと見えるようにスキャンされているかの確認や、スキャンしたデータの名称整理などを行います。

 

2016年から行ってきた寺崎さんの約13,000枚のネガスキャン作業ですが、なんとこの日で全てスキャンし終わるということでした。第一目的であったスキャンが終わった後は、寺崎さんが残したメモなどの写真以外の情報データ化、写真の分類作業などをしていくそうです。

今日一日で、細倉を記録した寺崎さんのまなざしをたどった参加者たちは、写真のネガが地道にスキャンされ地域の貴重な記録としてアーカイブされていくことを知り、関心をもって作業の様子を見つめていました。

かつて日本の近代化の資源供給地として大きな役割を果たした「鉱山」。日本各地にある鉱山は、時代の変遷とともにその機能を停止しました。そんな中、その盛衰を知ることができる跡地や記録は、一種のノスタルジーをもって私たちを惹きつけているように思います。閉山というひとつの区切りを見続けた寺崎さんの記録をたどった私たちが、当時の暮らしを想像して、どこか「なつかしい」と共感できるのは、平成の終わりが近いことと無関係ではないのかもしれません。

今回のツアーは、失われていたかもしれない寺崎英子という個人の記録をすくいあげたことから、いわゆる歴史とは少し異なる視点をもって知られざる地域文化の魅力を探る機会になったと思います。

2018年11月17日(土)から12月27日(木)の期間で「細倉を記録した寺崎英子の写真アーカイブ」による進捗報告展「細倉を記録した寺崎英子のまなざし展・カラー編(仮)」を開催予定です。寺崎さんがモノクロ写真とほぼ同時進行で撮影していたカラー写真に込めた、そのまなざしを紹介します。

展示がはじまる前に「旅のしおり」をもって細倉を歩いてみるのもおススメです。


▲当日参加者のみなさんにお渡しした旅のしおり

(文:せんだいメディアテーク 田中)

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