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ミュージアム界隈 第1回「それぞれの「交流」の物語」

昨年末、御用納めの日に縄文土器を見に行った。場所は沖縄県立博物館。2017年1月に同県北谷町(ちゃたんちょう)の平安山原(はんざんばる)B遺跡で発見された「亀ヶ岡系土器」の小さな破片が、同館で開催中の特別展「縄文と沖縄 火焔型土器のシンボリズムとヒスイの道」(2018年11月22日~2019年1月20日)で展示されていたのである。

この土器片は発掘の状況から約2500年前のものと考えられている。これが、この展覧会で展示されることを、昨年10月に沖縄に行ったときにチラシで見た時から、是非見たいと思っていた。その思いがなんとか御用納めの夕方に叶ったのであった。

 

土器がひとり勝手に海の上をプカプカ浮かんで東北から沖縄に流れつくわけはなく、人の手で運ばれていったことは間違いない。そこからまず頭の中を駆け巡るのは、東北の文化圏と南島の人たちとの間に縄文晩期から弥生前半にかけて交流があったのだろうという、ロマンに溢れた物語。海路による交流だったとしたら、とてつもなくダイナミックな物語になる。

 

でも、現実はそんなに単純なものではない。

亀ヶ岡式土器の特徴として工字文(こうじもん)という、漢字の「工」の字を横に連ねたような模様があるが、この土器片についてはその特長が東北のものというよりも、むしろ北陸や中部地方で発掘された亀ヶ岡式土器に似ているという。また、組成の分析によると、含まれていたガラス成分が、約7300年前に起きた鹿児島の「鬼界アカホヤ噴火」による火山ガラスであることが分かったというのだ。この「アカホヤ火山灰」は西日本に多く降り注いだので、この土器は西日本の粘土で作られた可能性が高いということになる。

 

これはどういうことか?

いろいろな可能性はあるものの、いちばん現実味があるのは「東北の亀ヶ岡式土器の工字文のことを知っている北陸か中部の人が何らかの理由で西日本に移り住み、その土地の粘土で作った土器を、誰かが沖縄にもってきた」ということ…。

言い換えれば、「日本列島に広く張り巡らされた亀ヶ岡文化のネットワークの一端が、沖縄まで到達していた」ということである。

東北と沖縄の直接的な交流というダイナミックな話ではないけれども、人や文化の交流という視点からすればこの物語の方が実はずっと饒舌であるように思える。

 

考えてみれば、ミュージアムで私たちが見ている一つひとつの展示物には、それぞれの「交流」の物語があるはず。ミュージアムはモノを所蔵しているだけではない。たくさんの物語の宝庫なのだ。小さな土器の破片を見ながらそんなことを思った。

 

※展覧会場では仙台市縄文の森広場で2016年に開催されたイベント「縄文人の記憶の宴」の記録映像が放映されていた。

 

せんだいメディアテーク副館長・遠藤俊行

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