1.埋没林(まいぼつりん)
現在、地底の森ミュージアムでは、特別企画展「発掘 富沢!!─30年のあゆみ─」を開催中です(2012(平成24)年9月17日(月・祝)まで)。当館地下展示室は、洪水などで埋没した2万年前(氷河期)の森林(埋没林)と人間の活動した跡を同一空間で見ることができる“世界中でここだけ”をキャッチフレーズとしていますが、今回の展示は、埋没・火山・津波というキーワードから「災害史」あるいは、「減災」の視点からみても、注目すべき内容を持っていますのでご紹介します。
埋没林は、全国で約70か所確認されていますが、「埋没」の原因となる自然現象は自然災害と関係してきます。埋没林の現地公開施設は、全国に、当館の他に2施設あります。一つは魚津(うおづ)埋没林博物館(富山県)で、2000年から1500年前(弥生~古墳時代)の森林が川のはんらんによって流れ出た土砂と温暖化による海面上昇により海面の下になった埋没林と考えられています。もう一つの三瓶小豆原(さんべあずきはら)埋没林公園(島根県)の埋没林は、3500~3700年前(縄文時代後期)の三瓶火山の噴火による土石流と火砕流によって埋没しています。いずれも樹木は杉が主で、三瓶では、直径2mを越える巨木が相当数発見されています。あたりの生き物は、絶滅の危機に瀕したことでしょう。そして、三瓶山のふもとには縄文時代の同時期の集落があったと考えられていますので、縄文人は、大災害に遭遇したのではないでしょうか。
2.仙台平野の火山・津波被害から
仙台市のみならず東北地方の平安時代の遺跡を発掘すると、多くの遺跡で灰白色の火山灰が見られます。これは、915年の十和田火山(青森県の十和田湖のところ)の爆発によるものと考えられています。
富沢遺跡発掘のきっかけとなったのは1982年の山口遺跡(富沢遺跡の南に接する現在の仙台市体育館の場所)での平安時代水田跡(22枚)の発見ですが、この火山灰におおわれた後、復旧の痕跡は認められるものの、一帯は、洪水による砂層におおわれています。当時の農民の苦労は、いかばかりかと胸が痛みます。
弥生時代中期には、富沢地区だけではなく、名取川下流域においても稲作が盛んに行われたと考えられています。しかし、約2000年前の大津波によって、現在より2km前後内陸にあった当時の海岸線から約2kmの沓形遺跡(くつかたいせき仙台市若林区荒井)など海岸に近い水田域とそれより内陸側にある集落(海岸線から約3kmの中在家南遺跡など)は廃絶したと考えられています。
この後、この地域で水田が再び作られ始めるのは、古墳時代になってからですので、大津波のダメージは、今回の東日本大震災に伴う津波同様、非常に大きかったと考えられます。より、内陸の広瀬川と名取川にはさまれた富沢遺跡周辺では、弥生時代後期まで水田が営まれ、集落の食を支えていました。津波にあって生き延びた海岸部の人々は、こちらに移動したこともあったのでしょうか。2000年前の被災地と人々の行く末に思いをはせます。
地底の森ミュージアム 館長 田中則和
☆地底の森ミュージアムでは、ホームページ内の「富沢博士のつぶやき」というコーナーで、さまざまな旬のトピックをお伝えしています。ぜひご覧ください。