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- 佐伯
- 「我々」というよりは「私」、私性を大事にしたのが洲之内さんだと思います。では、洲之内さんは絵に何を見ていたかということになると、また最初に戻りますが、洲之内さんのアパートの写真が大きな手がかりになりますね。
お酒があります。洲之内さんは中島みゆきが好きで、晩年、中島みゆきをラジカセでかけながお酒を飲み、見るともなしに絵を見ていた。その見方というのは、この絵の現実的なことは何だとか、この絵の構成はどうとかいったことよりも、絵から何か語りかけてくるというか、絵から何か言葉が出てくる、その言葉とのコミュニケーションっていうのかな、それが洲之内さんの絵を見る姿勢だったのではないかと思うんですよ。
晩年になって洲之内さんは、「なんで皆、こんなに絵に対する情報ばかり追っかけたがるんだ。それよりも、絵自身が語りかけてくるようなことに耳を傾ければいいじゃないか」といった風に言っていますが、絵を無造作に立てかけたりして、夜な夜な絵が何か語りかけてきたり、伝えかけてきたりするものを大事にした人なんじゃないかな。モノローグの精神というのかな、自分が自分と対話するというようなね。
モノローグというと、独り言ととられそうですが、そうではなくて自分との対話なんですね。ブログにしろ、日記にしろ、自分との対話になっていなければ、ただの独り言になってしまいます。自分ともちゃんと対話していないと、自分はいったい何者なのかということがいつの間にか分からなくなってしまいます。
洲之内コレクションの中には自画像などもありますが、自画像なんて特に自分と自分の対話でもあるわけだよね。鏡を前にして、自分と自分を語り合う。洲之内さんは自分自身との対話をしつこくしつこく行った人で、だから、洲之内さんの美術批評というのは、晩年の『気まぐれ美術館』などは特に、身辺雑記みたいなところが強いのですね。今月は歯が痛いとか、今月は金が少ないとか、今月は何だとか、そういうところから入って絵のことを語っていく。そして絵について言う言葉は、左半分が陰になって隠れていて、それが何の影響でどうとか、そういうことじゃないんだね。 - 有川
- 村山槐多<<自画像>>(1951年)もあれば、中村彝という人の<<自画像>>(1909年)もありますね。この人は仙台出身の、相馬黒光とも縁のあった方ですが、夭折された画家ですね。
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村山槐多<<自画像>>1915年
中村彝<<自画像>>1909年頃 - 佐伯
- 自画像が多いですね。
- 有川
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萬鉄五郎の<<自画像>>1915年萬鉄五郎の<<自画像>>(1915年)もあります。
- 佐伯
- モデルを雇う金もない画家は、最初に描く人物画は自画像っていうこともあるかもしれませんけどね。
- 有川
- 一番、言うことを聞くモデルですものね。
- 佐伯
- 一番、言うことを聞かないモデルとも言えるかもしれないかな。
- 赤間
- ここまで、絵を1枚1枚あげながら、作家の佐伯さんの視点からのお話と、美術専門家の有川さんの詳細な解説を伺って、なるほど、絵の見方というものはそういうものか、と私も新たに学んだ気持ちです。
そのお話の中でも見えてきましたが、『気まぐれ美術館』など洲之内さんの一連の美術評論は、絵について詳細に、細かく語るというよりは、絵の土台というか、根っこにあるもの、あるいは絵の向こう側にあるもの、絵の成立の背景にあるもの、そういうものを迂回して1枚の絵を語っている、と感じます。一連の洲之内さんの美術評論を読んでいると、物語を読んでいるような気持ちになるときもありますが、そこが作家・洲之内徹の文章だという気がします。
佐伯さんに伺いたいのですが、作家や画家は、創作、表現をしていくわけですよね。一方、美術評論で、絵画について書くという場合は、誰かの絵(創作)を、享受する人につなぐわけで、創作とは少しスタンスが違ってくると思います。作家として創作する洲之内徹と、評論家として、絵、創作について語る洲之内徹さんとの共通点、あるいは違う部分について、佐伯さんからご覧になっていかがでしょうか。 - 佐伯
- そうですね、洲之内さんの小説というのは、自己言及が激しすぎたというのかな、自分に対してのことが多すぎた。自分について語りすぎて、周りのことを見えなくさせたということがある。だけれども、絵を通して自分のことを語ることが、最後の『気まぐれ美術館』の中では何とかできるようになったのではないかということが一つです。
もう一つは、実は、小説の中に、美術批評というものに向かう目があったということですね。洲之内さんの小説の中の一つ、『棗の木の下』をちょっと紹介してみましょう。これは中国戦線を舞台にして、中国人を処刑するようなシーンも出てきたりする小説です。僕は芥川賞をとってしかるべき作品だったと思うんだけれども、当時まだ日本は戦争の記憶が生々しいときで、一刻も早く戦争を忘れたがっているときに、それだけ生々しい、正面から戦争の残虐的なことを扱った小説だったので、世の中からは排除された作品だったという印象があるんですね。例えば、 -
それは、あの夏の日の暑熱を伴わないというだけで、もう十分に烈しい光の氾濫であった。楡の梢にはいっぱいに色彩のない花が群がっていた。若葉の色と見分けのつかない、楡銭(ユイチェン)と呼ばれる淡い緑色のその花は、静かにこぼれ落ちて、土塀の裾に吹きよせられて溜まった。
- とか、
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…古賀は、討伐で見る根拠地の風物を心のうちにくりひろげていた。抗戦の標語や壁画を描いた部落の壁、手入れの行届いた菜園、壁新聞や共産党の指導者の肖像で飾られた小学校の教室――だが、それらはいつもガランとしてひと気がなく、その間を、日本軍の駄馬や砲車が埃を捲き上げて通って行く。いまの范の話を聞いていると、その風景の中に、本来の点景人物である農夫や、民兵や、党員や、子供たちが登場してきて、生きいきとした活人画に変ってゆくのだった。
- とか。
絵を用いたような描写の仕方ですよね。こういうところに、美術批評に向かうような目がありますし、洲之内さんという人が風景画を自分の心の中でとらえられる人だったということが出ていますね。 -
降らないうちにと、あわてて帰って行く曹長の逞しい背を、古賀は窓に立って見送っていた。音のしない稲妻の閃光が、間をおいて中庭を照らし、すると一瞬、光を受けた四周の壁が、四角な暗い庭の周囲にそそり立つ。風が出て、向かい側の客庁(コオテイン)の壁を、厚い鱗のように覆っている蔦の葉をざわめかせた。なにか眼に見えぬすばしっこい生きものがその下を走りまわっているような、奇体な青い葉の惑乱を見詰めて、古賀は、たしかに彼のうちにもあるその不気味な蠕動の感触を捉えようとしていた。
- という一節などは、心の中に1枚の絵をしっかりと持っていた人だったということをうかがわせますね。
しかし、こういう人が、自分の感情表現をするとくどくなってしまった。隙がないというのかな、そういう表現だったわけです。
『気まぐれ美術館』の「気まぐれ」っていうのが今日の話の一つのキーワードになっていると思うんだけれど、最初の小説は気まぐれではないんだよね。非常に几帳面に物事を描いている。それに対して、『気まぐれ美術館』は、洲之内さんの気まぐれという良さが出ている。これは、我々も、物事をとらえるときにはあまり几帳面ではいけない、気まぐれなぐらいがちょうどいいということなんだろうね。本を読むのでも、絵を見るのでも。 絵も、しっかりと、ちゃんと、こう見てと堅苦しく考えるよりも、気まぐれに、あ、これいいな、これいいなっていうくらいの方が、絵の方も見る方もリラックスして、しかし、直に、絵から何か語りかけてくるようなコミュニケーションが取れるということがあるのではないかなというふうに思っています。
先日、作家の古井由吉さんと対談したんですが、「人生というのは、7分の気まぐれ、3分の本気。本気よりも気まぐれの方が大事なんだよ、きみ」なんて言われました。つまり、そんな気まぐれな精神が見出したのが洲之内コレクションである。だから、いつでもブラッと、見たかったら見に来ればいいな、そんなふうにこれからも付き合ってみたいなとは思っているですけれどもね。
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- 会場
- 松本竣介の<<ニコライ堂>>という絵なんですが、実は、そこに描かれている橋は、仙台のX橋と同じ時期に造られたもので、同じ構造だったなっていうことが、スクリーンで拡大したのを見て確認できました。X橋は今年の夏ぐらいにはすっかりなくなるんですけれども、そういった雰囲気を残そうということで、欄干の石などを一部、アエル付近で保存しようとしています。絵の面影をX橋で体験できますので、皆さんも、X橋がなくなる前に、是非ご覧になってみませんか。
- 有川
- そうですね、確かに似ていました。
- 会場
- <<ニコライ堂>>の橋が新宿の南口だってことを以前に伺ったことがあって、私も、非常に不思議だったんですね。本当に見えるのかどうか。
ニコライ堂というのは高さが130mあって、明治34年にできたときには、確か東京180度が全部見えるんだっていわれていました。最近、神田の古本屋さんで、ニコライ堂が見える位置の絵が12枚出たというのを知りました。私のような素人が見せていただくわけに行かないので、有川先生かどなたかが見て、新宿の南口からニコライ堂を見た絵はあるのかどうか確認していただきたいなって思いました。
それから、「気まぐれ7分、本気が3分」。私も、これでこれから生きていきたいと思います。 - 佐伯
- まあ、新宿南口からもニコライ堂は見えてはいたんでしょうけどね。
- 会場
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吉岡憲<<マルゴワ>>1938頃洲之内コレクションには好きな絵が多いんですけれども、私は、吉岡憲の<<マルゴワ>>(1938年)が非常に好きですね。
この吉岡憲については、『気まぐれ美術館』の中の吉岡憲「笛吹き」の顛末という節で、かなり詳しく書いてあります。<<笛吹き>>(1943年)という絵が仙台ホテルのロビーに掛かっているが、仙台ホテルの駐車場の奥の方に展示してあったのですが、私も何回か見に行きました。細長い絵で、保存が悪いのか、かなりくすんだ絵だなという印象があります。 - 有川
- 戦地から送ったもので、縦長で巻いて送れるように幅が狭い絵ですよね。仙台ホテルが閉鎖されるにあたって、長野にある「信濃デッサン館」というところにお譲りになったようですから、また、目にすることができるだろうと思います。
- 会場
- 宮城県美術館としては、<<笛吹き>>を手に入れるアクションはおこされなかったのでしょうか。
- 有川
- 財政が厳しいので、残念ながら。でも、宮城でなくても、美術館に残ったので良かったなと思っています。「信濃デッサン館」は、窪島さんという水上勉の息子さんが運営されているところですが、そこで公開されると思います。
- 佐伯
- そうですね。僕も、仙台ホテルの前を通るといつも、ちょっと足を向けて見ていましたけどね。洲之内さんは、仙台はあまり思い出が良くないとまで書いていましたが、でも、そんな仙台の、宮城県美術館に洲之内コレクションがあるっていうのも、何か運命の不思議さというのかな、そういう巡り合わせというのがあるんでしょうかね。
縁というのは生き物、なま物であって、そのなま物に対して相対しているというのが洲之内さんの美術批評ではなかったかなって、僕は思っています。美術館に陳列されていて、それに鑑賞を加えるというのではない。売り買いされるものであって、どこかが潰れたらどこかで買われたり、みたいな。絵の一つの運命であったり、なま物としての絵というものに触れ得ているから、これが一つの人生のドラマにもなっているのかなというね。
僕は、洲之内さんのコレクションを見るたびに、「屈託」という言葉をいつも思うんです。人っていうのは、みんな屈託を持って生きているわけだけれども、屈託っていうのは決して癒されるものでもないし、解消されるものでもない。屈託を持ちながら、洲之内さんはあの4畳半かなんかのアパートで、絵とともに見たり、生きたりしたのかなと。屈託を持ちながら生きていく、一つの在り方みたいなものを、洲之内コレクションから感じることがよくありますね。

