見験楽学

もっと楽しくもっと学べるミュージアムを目指して。



見験楽学イベント

第2回 天文学の今と昔

  • p1
  • p2
  • p3

地動説、天動説の伝播

内山
時間も残り少なくなってきました。天動説と地動説について紹介して、締めたいと思います。地動説といえば、まずはコペルニクスですか。解説書によれば、コペルニクスが地動説を唱え始めたのは1530年ごろで、実際にそれを論文に発表したのは1543年の『天体の回転について』という本です。この1543年というのは、ちょうど日本に鉄砲が伝来した年ですね。その頃にコペルニクスが地動説を著書にしてまとめていたんですね。
小石川
その後、ガリレオが木星の衛星の動きを見て地動説を唱えていくように、観測器械が整い、天体観測が普及していくとともに天動説というのはおかしいということが出てくるんですね。天体の動きというのは非常に正確ですから、それを詳しく調べていけば、それなりの結果は出てくる。宗教が絡むと難しい側面が出てきますが、科学的に見れば、おのずから結果は導き出されていくわけです。
内山
刻白爾(こっぺる)天文図解日本でも、基本的には天動説から始まっています。というのは、日本の暦でも、天体に対する考え方でも、学問的な原理は中国から伝わってきています。天文に関していえば、中国では明末から清にかけて、ヨーロッパから宣教師たちが様々な形で中国に入ってきて天文学を伝えます。当然、地動説なんか唱えるはずはないので、天動説。というわけで、それを引き継いだ日本の天文学も天動説から始まっていきます。
その後の詳しい経緯は省きますが、江戸中期ころになり、長崎にオランダから様々な学問が伝わってきて、それを翻訳していく過程で地動説が徐々に紹介されていく。
そういう中で1809年(文化6年)に出版物として公にされたのが、銅版画家としても有名な司馬江漢の『刻白爾(こっぺる)天文図解』です。
こっぺる、つまりコペルニクスで、コペルニクスの唱えたものの紹介であるという風に江漢が謳って出版したのです。天界の運行状況、観察できる物理現象、その中の木星と土星などを紹介したりしています。この頃から、太陽が動いているのではなくて、地球が太陽の周りを動いているんだということが、日本でも徐々にわかるようになってきたということなんですね。
さらに、驚くべきもう1つの図を紹介しましょう。司馬江漢は自分が得意とする銅版画で太陽と月の表面の大気図を、手彩色で出版しています。江漢の時代の天体望遠鏡ではここまでは見えなかったはずなので、おそらくヨーロッパから伝わってきた本をそのまま写したものだろう、たとえば17世紀のキルヒャーの『地下世界』という本の挿絵を引っ張ってきたんじゃないかと見られています。それにしても、こういった形で紹介されることによって、1800年前後の時代には、江戸の人たち、あるいは日本のある程度の知識人たちは、太陽の表面、月の表面がどういうものなのかということは理解しだしてきていたと言えるのですね。

質疑応答

参加者
地動説、天動説の話がありましたが、日本でも天動説から地動説に変わるのに、いろいろな葛藤があったのでしょうか。
内山
特に公的なお触れがあったということは聞いたことがありません。先ほど紹介した司馬江漢の『刻白爾天文図解』、そのほか、写本として出回っているようなものもあります。志筑忠雄の『暦象新書』(上・寛政11年=1799、中・寛政12年=1800、下・亨和2年=1802年)、本木良永の『天地二球用法』(安永3年=1774年)など、地動説を唱え始めたものが絶版を命じられたとか、版木没収とかという話は、出てきていません。流布したものもかなり多いですから、規制はほとんど掛からなかったんじゃないかと私は見ていますね。
このあと、山片蟠桃(やまがたばんとう)という大阪の商人が、『夢の代』という本を編集します。1810年(文政3年)で全て完結するのですが、何が面白いのかというとですね、宇宙のことを書いているんですね。ご覧いただいているのは、その中の宇宙空間図です。太陽系があり、太陽を中心に、地球から土星まで6つの惑星が運行している状況が描かれています。司馬江漢だとここまでなんですが、蟠桃の場合は、この太陽系とは別に、太陽系と同じように、太陽のような星を中心とした世界があっちこっちにあり、そこには生物もいるだろうという言い方をしているんですね。宇宙人の存在、宇宙空間にいる生物の姿まで暗示するようなことを書いているんです。この当時、ヨーロッパで、太陽系と似たような別のものが宇宙空間に存在していて、生物までいるだろうという風に言及したものがあったのでしょうか。
小石川
私の記憶にはないです。ただ、望遠鏡で星を観察していますと、明るい星のすぐそばに、暗い星がくっついていたりするのは見えます。二重星とか連星というんですけれど、そういうのを見て、「もしかすると」というような気分に想いをめぐらすことはできるでしょう。ヨーロッパにもあるかもしれませんが、これだけ見事に謳っているものというのは初めて見ました。
内山
自分が生きている世界は絶対的なものではなくて、相対的なものだという認識ですよね。実は、江戸時代の中期には、顕微鏡も入ってきて、さまざまな人が、いろいろな記録を残しています。例えば蟻、のみ、蚊の1匹にでも寄生している虫がさらにいるんだと。これは人間世界と同じじゃないか、と。人間も虫けらも同じ世界を持っているというような認識は、江戸の後期には、もうできているんですね。司馬江漢なんかも多分もっていたはずなので、そういう土壌があって、こういう宇宙論というのも形成された可能性は否定しきれないなという風に私は思っています。
小石川
戸板保佑の天球儀最後に、もう一度、戸板保佑の天球儀にもどってみましょうか。よく見ると、きれいなマス目が入っています。
内山
これは、多分、中国から渡ってきた天文の世界を、そのまま屏風に仕立てたものなんですね。金箔を小さく、丸く切って星をかたどり、それを銀の線で繋いでいくんですね。西洋の星座とは違うのかもしれませんが、星座を表現しているんですね。
小石川
この辺が天の川です。そして、織女とか牽牛とかという文字も入っています。そして、ここが面白いんですが、これは昼と夜の図になっているんですね。明るいところ、赤くなっているところが昼間の部分、暗くなっているところが夜の部分で、1年間でこん な風に昼間の長さが違うんですよ、ということを示しています。なぜ屏風なのか。寺子屋形式なんですね。屏風で教えているわけです。
昔、和算のほうには算額というものがありました。地方地方で数学、つまり和算を学んだ人たちは、問題を解いたら、額にして神社に奉納するんですね。これだけ出来るんだよと自己主張するわけです。
実は、東北大学の数学の先生、亡くなられましたけれど、広山あきら先生が大変詳しく調べておりますが、関孝和という和算の大家はニュートンの力学に肩を並べるくらいの知識を持っていたというんです。ですから、日本の数学も天文学も外国に引けをとらないという風に、僕は思っています。
内山
非常に奥深い世界が江戸時代にもあったということは、これらの話から見えてきます。天文台と博物館を行ったり来たりしながら、江戸時代からの400年、あるいはそれ以上の長い時代を行き来しながら、天文学なり博物学の学問とはどういうものなのかということを実感していただければ幸いです。
小石川
人間がこの世に生まれて400万年くらいになりました。その中の江戸時代と今までの間だけでも、これだけの進歩があったのかなと、今日は改めて感じた次第です。興味のある方はこれからもぜひ、天文台にも、また古い記録を調べたいときには博物館なりに行って、歴史と天文を繋げてみようとしていただければと思います。
  • p1
  • p2
  • p3