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- 小石川
- その一方で、中国がそれだけ改暦をしているということは、いろいろな天体現象の記録も多いということなんですよ。例えばハレー彗星が見えたとか、日食、月食が見えたとか。もちろん日本でも、古い天文の記録には日食、月食、惑星同士の接近、ほうき星や大流星などの記録が非常によく残っています。『日本書紀』にも出てくるようです。そういう記録の中には、例えばほうき星などであれば伝染病を運んでくるという風に言われたりしているものもありますので、天文学者がそこのところにきちんと関わらなくてはいけないという部分はあったでしょうね。中でも特に重要なのは、日食だったのではないですか。
- 内山
- 日食というのは不吉なんですか?
- 小石川
- やっぱりそうでしょうね、昔の人が見ればね。
ご覧いただいているのは、かなり前の写真なもので、こんな風にかなり広がっています。それに対して、2009年の写真を見ると、太陽の赤道方向に伸びています。東北大学の地球物理学教室にいらした齋藤尚生先生の言葉を借りれば、このような形は「有翼日輪」というんですね。翼のある日輪。実は、この形は、エジプト時代の王様の玉座の、ちょうど頭当てのところの丸いところにあるんですけれど、それが太陽で、そこから翼が伸びているように描いているのが太陽の活動の極小期の日食の様子を表しているのだと言うのです。太陽は11年ごとに活動が弱くなったり、強くなったりするわけでして、もしエジプト時代に、太陽の活動期の皆既日食を見ていれば、玉座の形が変わっているんだそうです。ああ、なるほどなと。
そこで比較されるのが、仏像の光背ですね。どこまで信用していいのか分かりませんけれど、あれは、活動期のコロナで、全周囲の延びているようなコロナをかたどっているんじゃないかなという風に言っている人もいるようです。そんなわけで、太陽と日食というのは、すごい影響力があったわけですね。 
- 内山
- 仏像などでは普通、火炎光背というのがありますね。炎ですよね。ご不動さんの後ろとか、お釈迦さんですとか阿弥陀さんなどは太陽の光が後ろに控えているという感じなのでしょうかね。
ところで、月食というものもありますよね。これは、どういうものなのでしょうか。日食というのは不吉なんですか? - 小石川
ご覧いただくのは皆既月食のときの写真ですが、月のそばにすごくきれいに天の川が写っていますね。皆既月食ということは、満月ですよね。満月のときには月の明かりが強くて、天の川の写真はきれいに撮れません。皆既月食で月明かりが消えてしまうので、写真に撮ることができるのです。ですから、満月のときにきれいな星空を見たい方は、皆既月食を狙えばいいわけですね。- 内山
- 月食は、いつ見られるんでしょうか。
- 小石川
- 日食では、2012年5月21日に日本で金環食が見られます。それに対して、月食では、2011年の6月16日に皆既月食を楽しむことができます。部分食でよければ、来年の1月1日、正月の元日の日に見ることができます。
- 内山
- その皆既月食ですが、実は、政宗が支倉常長たちをメキシコ経由でヨーロッパに派遣した慶長遣欧使節というのがありますけれども、石巻の月の浦を出帆したのが1613年の10月28日、これは旧暦で慶長18年9月15日になります。15日ですから望月、つまり満月の日なんですね。で、この日はどういう気候だったのだろうかと、実はだいぶ前に小石川さんに聞きに行ったところ、この日は月食だったんだということを聞いて、非常に驚いた記憶があるんですね。
- 小石川
- 「支倉常長像」が国宝になった時でしたから2001年だったのでしょうかね。私は多分、黒須くんから聞いたのだと思うんですが、支倉常長が出帆した夜は、絶好の条件の皆既月食であったというのです。ということは、出帆したときの日にちが詳しく分かるわけですよね。ただし、そういうときを選んだのか、それとも偶然だったのか、それは私には分かりません。
- 内山
- 出帆する時は、満潮干潮の問題はあるでしょうが、真夜中に出るわけではないでしょうから、基本的に月がどうのこうのというのは関係なかったかもしれないですね。
でも、そういうなかで、非常に暗示的だなと私が思ったのは、実はですね、支倉が出帆したちょうどその頃にですね、徳川幕府が日本全国にキリシタンの禁令を敷いているんですね。せっかくヨーロッパに向かっているさなかに、日本国内では、政宗の領土まで禁令は達してはいないんですけれども、徳川幕府としては日本全国にキリシタン禁令を徹底的に敷いてですね、キリシタンの弾圧を本格化しようとしていたんですね。そういった時代の雰囲気の中で、出帆の日に、洋上で月食を見ている。これはかなりの心情なりですね、感性になんらかの影響を与えたのか、与えなかったのか、非常に暗示的だなと。
いずれにしても、太陽と月は大きさが全然違うにも関わらず、距離がうまく合わさると皆既日食、皆既月食が起こるという、その不思議。そして、その日がまさに支倉の出帆の日に当たっていたという不思議に想いをめぐらすと、歴史もまた別な見方ができるのかなという風に思ったりしています。
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- 内山
- ところで、コペルニクス(1473-1543)やガリレオ(1564-1642)について改めて調べてみると、政宗の時代の前後の人なんですね。望遠鏡の発明自体が17世紀に入ってからで、コペルニクスは望遠鏡を見たことがなかったんだそうですね。
- 小石川
望遠鏡の発明者は、記録的には1608年、ハンス・リッペルスハイというオランダの眼鏡屋じゃないかといわれています。メガネのレンズを、こけしと同じようにろくろみたいなものを回転させて、ガラスを削ってまんまるにしていたんでしょうね。で、出来上がった2枚のレンズを右手と左手で持って、何かの拍子に通して見たら、「あれ、何だこいつ、遠くのものが大きく見えるぞ」となったのでしょう。多分、こんなきっかけで、眼鏡屋さんは望遠鏡を考え出したのかなという風に、私は思っています。この人はオランダの政府に特許を申請しに行くんですが、認められておりません。- 望遠鏡の発明者は複数いたんじゃないかというのが、説でございます。
この望遠鏡のことが、1年後にはガリレオのもとに伝わる。で、ガリレオは自分でレンズを作り始めるんですよ。イタリアですとベネチアというガラスの名産地がありますよね。そういうところでガラスを求めて、ガリレオは、自分で研磨して(研磨剤なんて海岸の砂でいいんですよ。それで摺りガラスにして、次には羅紗という布地にピカピカになるような研磨の粉を入れて、それで磨いていくんです)、自分なりの天体望遠鏡を作って、1609年の1月から、望遠鏡による天体観測を始めたということなんですね。2009年はその年からちょうど400周年ということで、全世界で「天文年」を記念して盛り上がっているわけでございます。 - 内山
- 1500年代から1600年代の初頭にかけて、日本ではスペイン・ポルトガル等と交易を行った時期がありましたね(南蛮交易と一般に言っていますね)。そのとき、西日本の長崎、平戸などに上陸した南蛮人たちの様子を描いた絵には、メガネをかけている南蛮人がよく描かれているんですね。記録によりますと、南蛮人には4つの目がある人間がいるという言い方をしています。日本人にとっては、非常に奇異なもので、驚きの目をもって眺められていたのが大体1570~80年代のことですから、少なくとも、望遠鏡の発明の30~40年前にはメガネの情報は何らかの形で入ってきていたとイメージできるわけです。
じゃあ、望遠鏡自体はどうなのか。なんと、望遠鏡発明の5年後の1613年(慶長18年)、まさに支倉が出帆した年に、イギリスのジョン・セーリスという人が徳川家康に献上したという記録があります。この伝播のスピードというのは、当時としては非常に早いという風に考えられますよね。そのあとは、軍事的な意味合いもあって権力者が独り占めするほうが好都合だったのでしょうか、普及することはなかったようです。そして、学問好き、新しいもの好き、舶来品好きだったといわれる8代将軍徳川吉宗(1716-45在職)が長崎のレンズ職人に望遠鏡を作らせるんですね。
ご覧いただくのは、その時、森仁左衛門というレンズ職人がつくった長筒望遠鏡です。実際に見えるのかどうかは定かではありませんが、銘が入っておりまして仁左衛門の作だと分かる数少ないものです。筒を長くして、折りたたむわけですが、これで1m半とか、2mくらいの長さなんですね。おそらく和紙を筒状にし、漆で塗り固めて硬くしているというものですね。そこに金の蒔絵で、漆器のような豪華な装飾を施しています。
次にご覧いただくのが、岩橋善兵衛という人の長筒式の望遠鏡です。これは彦根藩主井伊家に伝来したものですが、7段式に延びるもので、錦の布を筒に巻いた非常に豪華な作りになっています。実は、この善兵衛さん、なかなか研究熱心でして、望遠鏡は見えなくてはしょうがないということで、自分で観測して、1802年には『平天儀図解』という本まで出しているんですね。そこで彼は、自分がつくったものは「窺天鏡」、天を窺い覗く鏡というもので、これで見た太陽がこれですよという風に紹介しています。太陽の黒点の観測結果も出版物として刊行しています。
もちろん、多くの人が目にする機会というのはそうそうはなかったと思いますが、知識人の間では、太陽には黒い点があるといったことが、この頃からわかり始めてきたと言えるのでしょうね。
次は、善兵衛が作った望遠鏡を使って、別の人が見た結果を報告しているものです。太陽の黒点も別のページにありまして、粟粒のようなものが描かれています。小石川さんにお聞きしましたら、光が斜めの方向から射しているために、月のでこぼこが目立って見えたのではないかというのです。つまり、月のクレーターも描かれているわけです。- 小石川
- このクレーターですが、光の筋みたいのが出ていますね。これは「光条」と呼ばれるものでして、ここまで描いているんですから、この人が使った望遠鏡というのはずいぶんとよく見えたと思いますね。
- 内山
それに木星も描かれていて、3つの筋まで見えているんですね。- 小石川
- 小さな望遠鏡で木星の縞模様を見ようとすれば、多く見えても3本まででしょうね。それ以外にも、3個の点々が描かれていますが、どうもガリレオ衛星ではないかと思いますね、1609年に天体観測を始めて、ガリレオはガリレオ衛星を見つけるわけです(イオ、エウロパ、ガニメデ、カリストという4つです)。で、その動きを調べていったら、どうも宇宙の中は地球が中心ではないということがわかる。そして天動説から地動説を唱えたがために宗教裁判を受けて有罪になってしまいます。その罪は間違いであったという訂正文を出したのは、最近、20数年前のことですよね。木星観測には、そんな歴史もつきまとっているのですね。
- ところで今、木星が山羊座にいて、そのそばに海王星がいるんですよ。今度の土曜日(2009年11月21日)でもいいです、晴れたら天文台に来てリクエストしてみてください。木星を見た後に海王星もすぐそばにいますから。実は、これと同じ状況が1609年ころに起きていたんです。ガリレオは、木星の観測ノートの横っちょに、海王星を描いているんですよ。彼は海王星とは思わずに、普通の星だと思って描いています。詳しく追跡していれば、海王星の発見はルヴェリエら3人ではなくて、ガリレオになっていたかもしれないんですね。
- 内山
- で、次は土星の図ですね。輪が、板みたいになっていますけどね。
- 小石川
科学の知識がない人が見ると、多分、板のように見えるんじゃないですか。これは私の望遠鏡で撮った写真なんですけども、輪っかが見えていて、そばにタイタン、レア、ディオネ、エンケラドゥス、イアペトゥスという5個の衛星が見えるでしょう。それと比べて、図の記録はどうか。昔の望遠鏡でそこまで見えたでしょうかね。この図は、もしかすると自分の観測記録だけでなく、ヨーロッパから入ってきていた記録を入れた教科書的なものなのかなとも考えられますね。
- 内山
ちなみにですね、1806年(文化3年)発行の『閑田次筆』という本は、橘南谿(たちばななんけい)という人が観測をし、伴蒿蹊(ばんこうけい)という別の人が書いています。橘南谿という人は京都の蘭医ですね。オランダの学問ですと、当時、医学も天文学も物理学も一緒くたに入ってきていますので、そういった様々なものに興味を惹かれて、南谿も色んな観察をしているんですね。
先ほど、望遠鏡が一般に普及するのが一時期制限されたようだと言いましたが、江戸の中期、後期以降になってくると、かなり市民向けに出回ってくるようです。吉宗が、キリスト教に関わらないものに関しては解禁するという政策をとっていましたので、こういう文物も広がりを見せていきます。これは春信が描いた美人画ですが、遊郭の2階から、品川沖の船を眺めている少女が望遠鏡で見ています。この頃には、望遠鏡が遊郭や名所などに備え付けられて、1回何文という風にお金を取って見せるといった場が設けられていたのですね。一般の人が目にする機会は意外と多かったようなんです。- 次の写真は反射望遠鏡です。長筒式の望遠鏡の限界をなんとか乗り越えるために、反射望遠鏡を日本でも開発するようになります。これを作ったのは国友藤兵衛という人で、近江、今の滋賀県国友村出身の鉄砲職人で、井伊家伝来のものです。この人は1820年頃(文政3年)に江戸に出て、たまたま伝来していたグレゴリー式反射望遠鏡を見たんですね。これはすごい、なんとか自分でも作れないかと考え、15年後の1835年(天保6年)、国に帰って作ったのが、この望遠鏡なんだそうです。その精度を確認するために、太陽の黒点を観測し出します。写真はないんですが、1835年1月6日から観測を始めて、翌年の2月8日まで、曇りの日や雨の日は除いたのでしょうか、157日間、のべ216回の観測だったと記録されています。西洋でこれだけの長い期間にわたって黒点を観測したのは、その10年前、1826年だったというんですね。つまり日本では、わずか10年後に、西洋の最先端観測記録に肩を並べるくらいの太陽黒点観測を記録した。それも一介の鉄砲鍛冶職人がそこまでやっていたのです。ですから、江戸時代は身分制度とか云々されますけれど、実はそんなこともなくて、科学は知識人だけのものではなかった。あらゆる階層の人たちが数学なり、物理学なり、科学に興味を持って、なかにはこういったものを作ったりする人もいた、という底の深さが江戸の文化を支えていたと言えるのではないでしょうか。その一つの象徴として、私はこの望遠鏡を考えているところです。
- 小石川
- 話題に出ましたガリレオ式の望遠鏡は、多分、ここの売店で売っているはずです。ニュートンの反射望遠鏡の模型もあったと思います。3千円くらいあれば、両方買えるはずなので、一度は買って作ってみて、反射望遠鏡と屈折望遠鏡の違いを比較してみてください。私もガリレオ式の小さいのを作って、解説用に使っているんですけれども、残念ながら見える範囲が狭く、思い通りのものが入ってこなくて、見づらいです。そんなに狭い視野で、ガリレオはどうやって木星を見たり土星を見たり、記録したりしたんでしょうね。よっぽどガリレオには時間があったんでしょうかね。
- 内山
- 江戸時代の当時、長筒式から藤兵衛の反射望遠鏡に移り変わったときに、拡大率としてはどのくらいの割合だったんでしょう。
- 小石川
- 先ほどの長筒式の望遠鏡はガリレオ式ですから、倍率をあげたりはできないんですよ。上げてもせいぜい10倍とか15倍とか、非常に低い。けれど、それだけのものがきちんと見えるようになってはいるんですね。
一方の、国友藤兵衛の作った反射望遠鏡はグレゴリオ式といいまして、景色を見るとき正立になる。見たようになる。国友は景色を見たかったのでしょうね、さかさまにならないように楕円鏡を作っている。そのほかの望遠鏡は、景色がさかさまになるんですよ。 - 内山
- そういう情報も外国から入ってきていたということですね。
- 小石川
- それ以上にびっくりしたのは、太陽の観測をどうやっていたかなんですよ。今では、サングラスを使っても、直接見てはいけないという風になっているんです。私も昔は口径が26cmの望遠鏡を使って、霧の出たときに見たんですけれども、それでも赤外線が通って来るから、目の周りが熱くなってきて見ていられないなんです。サングラスさえもない状態で、国友藤兵衛さんたちはどうやって太陽を見たんでしょうね。
- 内山
- サングラスはもう、江戸時代に日本に入ってきているんですよ。司馬江漢が紹介していますね。ソングラスという風に。その作り方なども紹介していたと思います。1800年前後には、蘭学者の間では使われていたということは分かっていますね。
- 小石川
- 国友藤兵衛もソングラスを使ったのでしょうかね・・・。

