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第2回 天文学の今と昔

第2回 : 天文学の今と昔

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[テーマ]
江戸時代の仙台藩と世界の天文学
[日時]
2009年11月22日14:00~16:30
[会場]
仙台市天文台加藤小坂小ホール
[出演]
仙台市生涯学習課天文台 : 小石川正弘係長
仙台市博物館 : 内山淳一学芸室長
[司会]
仙台市天文台 : 小野寺正副台長
[参加者]
約30名

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内山
仙台市博物館は、1961年(昭和36年)、青葉山のふもと、仙台城三の丸跡にオープンしました。公立の博物館としては非常に早い開館です。再来年(2011年)、50周年を迎えるという長い歴史を歩んできました。実は、23年前に新館に建て替え、大規模な展覧会活動等を行ってきたのですが、展示施設がだいぶ老朽化し、内容も少し古くなってきたということもありまして、2009年9月1日からリニューアル工事のために休館に入っておりまして、2010年4月20日、リニューアルオープンということになります。特に常設展示部分がかなり変わりますので、今まで以上に活用していただければと考えているところです。
小石川
仙台市天文台は、1955年(昭和30年)に西公園に開台し、50数年間、いろいろな星を見てきました。私は天文台に勤めて今年で37年になるのですが、私が入った頃(1972年)でも、西公園で天の川が見えていました。その当時の仙台市の人口は約60万で、街明かりも少なかったことで天の川が見えていたんだと思います。しかし、街の中の天文台というのは、どうしても街明かりがありますし、観測環境は悪いんですね。人口が増えていくにつれて街明かりも多くなり、建物も老朽化しました。地下鉄東西線の工事もありまして、とうとう天文台移転となったわけでございます。でも、日本全国の天文学愛好のアマチュアの方々からは「なぜ、わざわざ住宅地のそばに行ったんですか」ということをよく言われます。蔵王山のてっぺんという考えもあるでしょうが、それでは、仙台方向の空が明るいのでだめです。交通の便も悪い。そういうことで、JR仙山線も走っているこの場所に決めたわけです。
そして、この移転に当たりましては、日本一ではありませんが、仙台市天文台ならではの「3つの歯車」を用意しました。それは、(1)そこそこの大きさのプラネタリウム、(2)そこそこの大きさの展示室、(3)それなりの大きさの望遠鏡、です。この3つの歯車をうまく回して天文台を作りましょうということで、この新しい天文台になっております。
ところで、本日の標題が「天文の今と昔」ということですが、天文に関して今も昔も変わらないものがあるのをご存じでしょうか。実は、寝不足です。皆様の中でも、昨日から今日にかけて星を見たという方、いらっしゃいますか?ああ、いらっしゃいますねえ。11時半から1時くらいまでちょっと薄雲がかかってダメだったんですけれども、そのあとがまた、きれいな空になりましたよね。おかげさまで、私、ここで朝の5時まで仕事をしていました。一度、家に帰りましたが、この行事があることを思い出しまして、慌てて天文台にやってきたというわけでございます。非常な寝不足でございます。
内山
仙台市博物館には、江戸時代の仙台藩と日本の天文に関する資料や関連図書も収蔵されています。その代表的なものによって江戸時代の天文の話をさせていただき、最先端の研究をなさっている天文台の方に質問をして、クロスさせていくという形で進めていきますので宜しくお願いします。

伊達政宗の遺品の中の天文

内山
最初の画像は、言わずとしれた伊達政宗の鎧です。「黒漆五枚胴具足」と呼ばれている重要文化財で、兜の前の月の形が非常に有名です。その脇にあるのは、「白地赤日の丸旗」。日の丸の旗に似ていますが、これは、政宗時代のものだろうとされているものです。
黒漆五枚胴具足と白地赤日の丸旗
伊達政宗甲冑騎馬像次の画像は、狩野探幽という、江戸時代はじめに活躍した幕府お抱えの有名な絵師が描いた「伊達政宗甲冑騎馬像」です。ちょっと小さくて見にくいかもしれませんけれども、先ほどの鎧を着て、兜の前立は月形になっており、背には日の丸の旗印を見せています。 これらがどうして政宗を象徴するものなのかということなんですが、実は、政宗のお父さん伊達輝宗の治世のことを書いた伊達家の公式の記録である「貞山公治家記録」の、1567年(永禄10年)の8月3日条、政宗の生まれた日の項に、「この後、日輪をもって御旗の紋としたまい」と書かれ、「半月輪をもって、御兜の立物に製したまう」、つまり、半月型を兜の前立てに定めたと続けられています。
実は、政宗が生まれるとき、政宗の母親は、何とか子宝が授かるようにということで伊達家のお抱え僧侶を湯殿山に派遣するんですね。仏教で信仰される画像に「両界曼荼羅図」というものがありまして、左側の金剛界が太陽、右側の胎蔵界が月の世界を象徴するとされています。輝宗は、太陽を赤丸で描いて旗印にし、兜の前立てに月を備えておいたというわけなのです。実際の形は三日月か二日月なのに、なぜ記録には半月とあるかといえば、伊達家では江戸時代を通じて、満月以外のものは半月という風に呼んでいたらしいですから、辻褄は合っているのですね。
ということで、小石川さんへの最初の質問です。旗に描かれているのが太陽なり月を表すとして、それが赤丸になっているのは、なぜなのでしょうか。赤丸というのは、太陽のどういった状況を表すのでしょうか。
小石川
それは、夕方の見やすいときに見た太陽を入れ込んだのだと思います。
皆さんのお子さん、お孫さんは、小さい頃に絵を描いたとき、太陽はどんな色に描いていましたか。そうですね、大体、赤だったのではないでしょうか。それは何かというと、太陽をじっと見つめられる時間というのが日の出や夕暮れ時で、そのときの太陽は赤くなっているということなのです。特によく見えるのは春頃ですね。
赤くなっている夕方の太陽黄砂のころには、夕方の太陽が赤くなっているのを見たことがあるはずです。昼間の太陽なんて眩しくて、じっと見つめることなんてできませんものね。
でも、子どもたちが描く太陽が赤いというのも、昔の話です。最近では、太陽を黄色く描く子どもたちが増えているんですね。天文台に長く居たせいで、幼稚園の子どもたちの絵なんかも見る機会があるんですけれども、黄色く描く人が多くなってきました。これはどういう理由なのか。科学の知識が子どもたちにも入ってきたのではないかな、と私は勝手に考えています。
内山
日本の古い美術品などでは、太陽は金、月は銀で表現するというのが一般的です。それであれば、政宗の兜の前立てというのは銀であるほうが正しいのだと思うんですが、それを金で表したというのはどういうことなのか。なかなかこれは記録にはないようですけれども、1つには、銀は非常に酸化しやすくて黒くなってしまうので、あえて金を使ったのか、なんて思ったりもしています。政宗の美意識がかなり反映しているということもあるのでしょうね。ところで、この前立ての三日月は向って左側が小さくて、右側が長い形ですが、小石川さん、これは普通に見えるものなのでしょうか。
小石川
月齢2の月絶対ありえません。月は、きれいな対称形になります。ご覧いただいている月の写真(図5)が、月齢が2と言いまして、三日月のちょっと前くらいのときです。望遠鏡にカメラを付けて撮ったんですけれども、きれいな対称形になっていますでしょう。
内山
ところで、政宗の前立ての月は、何月という風に言えばよいのでしょうか。
小石川
二日月くらいでしょうね。あるいは、月齢が1.8というような、もっと細い月でしょうね。
内山
実は、政宗が生まれたのが8月3日です。このような月が出ていたという可能性はあるのでしょうか。
小石川
その頃の暦は陰暦ですから、8月3日には三日月が見られ、5日は五日月、7日は七日月が見られるということになります。旧暦で表したほうが、月の形が良く分かるのですね。旧暦の8月3日なら、こういう月が見られたでしょうね。
内山
なるほど。
小石川
でも、形としては、さきほどご覧いただいた二日月の方に近いのですね。多少のずれはあって、3日でも2点いくつとか、端数が出てきますから、三日月でも二日月でも大体同じようにしたんじゃないでしょうか。
内山
この話題の最後になりますけれども、もう一度、政宗の鎧をご覧ください。前立てが、向かって左側に長くて、右側に短いという、非対称に作られていますね。これはなぜか、お分かりでしょうか?
一つには、この方がかっこいいという、政宗の美意識があっただろうと思うんですね。これは今でも通用するようなデザイン・センスだと思います。
それともう一つは、政宗が戦国武将だったということを忘れてはいけないんですね。政宗は右利きです。刀を打ち下ろすときに、政宗側から見て右側が長いと、刀がぶつかってしまいます。それで、邪魔にならないように短くしてある。戦国武将としての合理的な考え方も背後にはあるのではないのかな、という風に考えております。

江戸時代の天文を世界と比較する

内山
いま、陰暦の話が出ました。陰暦では、月の満ち欠けと日にちの数え方というのは対応するんだと。3日であれば、基本的に三日月であるというお話が出ましたけれど、この暦についてもう少し詳しく説明していただけないでしょうか。
小石川
実は、陰暦というのはやっかいなんですね。陰暦では、1ヵ月は29.5日で、端数が出ます。それを繰り返していきますと、どこかで帳尻を合わせないといけなくなるんですね。それで、1年12ヵ月の途中で「閏月(うるうづき)」というのを入れて13ヵ月にするんです。昔は、そうやって調整していたんですけれども、この辺の言葉で言うと「いずい」ときが出てくる。そのために、その時代時代で「改暦」というのを行っていたんですね。そして、そのための専門家もいたのです。
伊能忠敬が日本の地図を作りますけれども、そのためには星を観測しなくてはいけません。象限儀(しょうげんぎ)という器械を使って、水平を出し、北極星を調べ、その場所の位置を決めて、あれだけの地図をつくったわけです。それと同じように、天体の動きを調べることによって太陰暦とのずれが出てきますが、そのずれを修正することが昔の天文学者の仕事だったのではないかなという風に、私は思っています。
たとえば仙台藩では、天文方に戸板保佑(やすすけ)という天文学者がおりまして、わざわざ京都の土御門家(朝廷の陰陽方を代々司っていた家)まで行って、さまざまな実習を積み重ねてきています。そして、幕府から頼まれて、宝暦の改暦だと思いますが、改暦に携わります。
観測器械当時、仙台藩の天文台は、どこにあったと思いますか?実は、木町の、現在葬儀会館があるあたりの裏手に戸板邸があり、天文台になっていたんですね。戸板は、そこでいろいろな観測器械を使って、月の動きとか、月食なんかも観測しています。現在、仙台市天文台の展示室にも、戸板が使った渾天儀(こんてんぎ)象限儀などが展示してあります。よく見ると、目盛りの刻み方などにも独特のところがあります。昔の人というのは、よほど時間があって、じっくりと星を観測していたんでしょうね。
その戸板なり、仙台藩の天文方がいろいろの観測記録も残していますが、そのほとんどは天理大学の図書館に入り、一部が東北大学附属図書館に入っています。以前天文台にいた黒須潔(現、仙台市交通局勤務)というものが、そのへんのことを『仙台藩の天文史-戸板保佑と幻の西洋暦-』などとしてまとめています。関心のある方はご覧ください。
内山
その当時、ユリウス暦とか、グレゴリオ暦とかの太陽暦を使っていた国もありますよね。どちらが主流だったのですか。
小石川
太陽暦はヨーロッパが起源ですね。日本でも、明治時代には太陽暦を導入するわけですが、それ以前は太陰暦です。もしかすると、皆さんのお父さん、お母さん、おじいさん、おばあさんは陰暦で話したほうが通じるかもしれませんね。私の実家はお寺なものですから、「うちのばんつぁんの法事は陰暦のこの日にするんだったけど、太陽暦に直すとなんぼになんのしゃ?」といった話を聞くことがあります。今でも、日めくりのカレンダーには陰暦が書いてありますよね。私などは、朝、日めくりを見て「ああ、今日の月は半月だな」などと認識しています。
 陰暦の面白い話としては、横井庄一さんだったか、隠れているときに月の形を調べてカレンダーをつけていたのが、誤差が1週間くらいしかなかったという話がありました。1972年頃のことですから、終戦から数えて20数年間の暦をつけていて、それだけの誤差ですからすごいですよね。それくらい、月の形を見て、数えていくというのが容易であり、かつ正確に出せたんですね。
月の形を見るというのは、時を調べるのにも非常に良い目標であると昔の人は知っていたんでしょうね。眩しい太陽は見にくいですものね。形をつかむにも月が良かったのではないかなと思います。
内山
おさらいですけども、月の満ち欠けというのが29.5日ということで、29日と30日を組み合わせていくことで、何とか帳尻を合わせようとする。それを計算式にすると、12ヵ月だと29日×6ヵ月+30日×6ヵ月=354日なんですね。つまり、1年365日ですから、11日足りない。その11日分をどこかで帳尻合わせしなくてはいけないので、2年から3年に1回、閏月というのを入れて、月を一つ増やすんですね。それで、足りない11日分を2~3年のうちに修正するというやり方ですね。これがいわゆる「太陽太陰暦」(太陰暦を用いながらも閏月で調整する暦)というものですね。
小石川
そうですね。そうして帳尻を合わせていくということになりますね。
内山
で今、ご覧いただいているのが、1700年代前半の伊勢暦(注:伊勢神宮が発行していた暦。神宮暦などともいう)です。文字だけのものですが、29日になるのか、30日になるのか、あるいは閏月に入るのかといったことを情報として手に入れられるようにということで、天文方なりが、このような暦をつくつたのですね。
しかし、これでは面白くないだろうと考えた人たちが江戸時代にいます。絵の中に大の月、小の月を入れ込むことができないかということで、江戸中期以降になると、「見立寒山拾得」(延享4年=1747年)、「大小暦類聚」(明和3年=1766年)のような絵暦がつくられるようになり、鈴木春信の「雨中鐘馗と美人」(明和2年=1765年)のような美人画などにも大小月が描かれたたりするようになります。年末年初に配ったり、購入したりするものですから、華やかさが欲しいということで、少し、色も入ってくるようになります。大の月と小の月と閏月の3種類が分かれば、あとは自分たちで計算できるはずなので、数字を書き連ねずに、洒落た感じに体裁を整えていますね。木版画は通好みが対象だったのでしょうが、ほとんどの家庭には、こういうものが流通していたという風に考えられます。
ところで改暦に関して、中国では40回以上も改暦していると聞いたことがありますが、日本では何回くらい行われたんですか。
小石川
資料から見ると、江戸時代で4回とかそんな感じですね。
これは、暦の研究家に聞いてみないと分からないんですけれども、数回しかやっていないということは、幕府に何かがあったのかなとも思いますけどね。改暦をするためには、相当に精密な器械がそれなりの数あり、優秀な天文方もそれなりに集めてという必要があります。そのスタッフに、仙台藩の戸板も入っていたのですから、伊達藩の位置はかなりのものだったのでしょうが・・・それにしても、改暦があまりやられていないというのは何なんでしょうね。
内山
中国では、皇帝が替わると世の中が全く変わってしまいますよね。政権が変わってしまいますし、民族までかわってしまう場合があるわけですけれども、そういう度ごとに改暦が行われてきたという風に聞きますね。一方の日本の場合は、そういうことがほとんどなかったということが関係して、改暦が少ないのでしょうか・・・。
小石川
昔の話ですけど、中国では、天文学者は計算を間違えちゃうと王様に対して申し訳ないということで打ち首になったりしているわけです。中国では、そういうことも影響しているのでしょうかね。
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